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錦市場とは
錦市場とは
京の台所、四〇〇年の歴史
錦市場は京都市内の目抜き通り「四条通り」の1本北に位置し、錦小路通の寺町から高倉まで東西390メートルにもなる「京の台所」と言われる「商店街」です。
400年の歴史を持ち、京都市民からは「にしき」という愛称で呼び親しまれています。
商店街振興組合に属する店は約126店舗、狭い通りの両側に様々な商品を扱う商店が軒を連ねています。
鮮魚をはじめ生鮮食品や加工食品、京料理の食材などヨソでは目にできない珍しい食材、京都が育ててきた独特の食文化、専門家だから教えてくれる知識。なんでも揃う「京の台所 錦」として料亭、旅館等業務用をはじめ、地元の方で賑わい、現在では、多くの観光客や修学旅行生が訪れる活気のある観光名所としても賑わっています。
錦市場の歴史と発展
いまに伝わる四〇〇年の歴史と「錦の水」
正式な記録によるものではありませんが、市場としての起こりは古く平安時代のころ、すでにこのあたりに市が立っていたと推測されています。約400年前の1615年(元和元年)に江戸幕府より魚問屋の称号が許されたのが、魚市場としての錦市場の始まりです。
当時は魚の独占販売権を持った魚市場の1つとして繁栄 しておりましたが、明治には特権が廃止され、昭和 2 年全国に先駆けて開設した京都中央卸売市場の誕生に伴う店舗の移転など、 いくつかの困難を乗り越えて現代に賑わいを維持しています。
錦市場の発展に地下水あり
錦市場が開かれた理由の一つには「地下水」が強く関係しています。
錦市場がある場所は昔から質の良い地下水に恵まれており、冷たい地下水は魚鳥の保存に適しています。
昔の錦では、地下水を利用した「降り井戸」で生ものを冷やして冷蔵庫の代わりをしていました。今でこそ、冷蔵庫があり私たちは便利に生活していますが、当時は井戸水自体が非常に貴重であり、冷やす方法は「井戸水」以外考えられませんでした。
京の台所を支えた名水「錦の水」には現在も古くからある錦の店舗がこだわりを持っています。
錦市場と京の食文化
錦市場は京の食文化と共にある
「京都における食は,ご飯を主食としつつ,旬の野菜を中心に乾物や大豆加工品,漬物などの副食を上手に組み合わせた一汁三菜が基本であり,食材の持ち味を引き出す出汁(だし)をベースにした健康的なものとなっている。京都の食文化の根底にある家庭の食卓には,代々受け継がれてきたおかず,いわゆる「おばんざい」を中心に,食生活に節目をつけるおきまり料理や暦や年中行事に合わせた行事食などが並んでいる。
今日の京都の台所を担っているのは,生産者の創意工夫により育まれてきた野菜,乾物や豆腐,湯葉,生麩などの加工品,漬物,棒だらや塩鯖などの塩干物や川魚,白味噌,うす口醤油などの調味料【>>「京の食文化」より引用】
そして,それらを提供する市場として錦市場は今日まで繁栄し「京の台所」として皆様に愛されてきました。
錦の店は皆、独自の「顔」と「味」を持っており、京都の人の気質が生んだ食へのこだわりこそが錦のブランドであるといえます。
品質を決して落とさず、料亭はもちろん、一般消費者をがっかりさせない品揃えが大きな魅力となっています。これが「錦ブランド」であり、現在のにぎわいの大きな理由となっています。
伊藤若冲と錦市場
伊藤若冲と錦市場
伊藤若冲(1716-1800)は、個性的な絵師が多く登場した江戸時代後半の京都にあって、ひときわ輝く強い個性で作品を生み出し続けた絵師です。
京都錦の青物問屋の生まれという事実はひろく知られており、若冲が描く絵画のなかには「野菜涅槃図」をはじめ蕪、大根、レンコン、茄子、カボチャ、柘榴、蜜柑、桃といった果物までが描かれています。
明和8年(1771)から安永3年(1774)までの錦市場の動向を伝える史料「京都錦小路青物市場記録」によると若冲が錦市場の営業認可をめぐって積極的に調整活動をおこなっている記録あります。
当時錦市場では、営業をめぐる争議が起こり、若冲は画業を中断して町年寄として解決に尽力。その結果、錦市場は窮状を脱することになりました。
若冲は錦市場の恩人であり、錦市場の「中興の祖」といっても過言ではありません。
錦市場の西の入り口あたりに、伊藤若冲の生家跡を示すモニュメントがあります。
奇抜な構図、卓越した技巧、見るひとの心を射抜くような色彩の作品で知られる伊藤若冲。
近年、日本にとどまらず欧米でも知名度と人気を高めています。
錦市場では店のシャッターをはじめ各所に、その絵を見ることもできます。